った峠の春(2003.2.22)

  私が病気で会社を休職したのは2003年1月の終わりのことだった。病気というのはストレスによる鬱病だった。頭痛、眩暈、動悸、不眠などの症状、そして集中力の低下が現れたのは去年の8月ごろだった。原因は仕事やそれに関する人間関係だとは思うが、私が性格的に鬱病になりやすかったということもあるだろう。
 去年の8月以来、医師からも、会社の診療所の保健婦さんからも、休職を勧められていた。しかし、仕事を休むことは、なんとなく後ろめたく、私は抗鬱剤と睡眠薬を飲みながら、なんとか仕事を続けていた。毎日、毎日、会社に行くのが苦痛でしかたなかった。たまにストレス発散のため、飲みに行って騒いだり、小旅行をしていたが、落ち込んだ気分は改善されなかった。
 そして年が明け、私は新しいグループに異動になった。仕事はこれまでのシステム開発ではなく、新技術の調査をするというような仕事になった。しかし何を調査すればよいのか、さっぱりわからない。自分が何をしたいのかもよくわからない。仕事はさっぱり進んでいない。私はますます落ち込んで、自分で自分がよくわからなくなった。
 自分に未来はあるのだろうか。
 何もかもがめんどくさくなって、このままどこかへ消えてしまいたい。
 やるせない思いはどんどん強くなり、せつなさは私の心を支配してしまった。
 そしてついにギブアップをした。診療所の保健婦さんに電話し、もうどうにもならない思いを伝えた。次の日、総合病院で診断書を書いてもらい、上司に休職することを告げた。
 上司は、私のもっていた仕事は何とかすると言っていた。保健婦さんは「心が風邪を引いた」と思ってゆっくり休養するように私に言った。私は自分が本当に病気なのか、ただ今の会社や仕事が嫌になったのか、よくわからないまま休職することになった。
 休職中は実家に帰ることにした。鬱病は自殺の可能性があり、ひとりでいるより、家族と一緒にいる方が安全だということだった。
 実は私は自殺しても良いかなと、一瞬、思った。人間はいつかは死ぬのだ。それが早いか遅いかだ。私にとってそれはたいした問題ではないように思えた。いつ死んでも悲しむ人はいるだろう。迷惑をこうむる人もいるだろう。
 しかし、一方では、どうせ死ぬのなら、自ら命を絶つこともないだろうという思いもあった。生きていれば楽しいこともあるだろう。私ははかない人生の中でで、それを見つけてみようと決心した。
 休職し、すぐに実家に戻った。弟が国保連に勤めており、その紹介で藤枝にある病院に通うことになった。私の実家は清水にあり藤枝までは電車で40分くらいだろうか。ちょっと遠いが、私は弟が私のためにしてくれたことに従うことにした。
 病院では入院を勧められた。休職して、実家で休養していると、仕事をしていないで遊んでいるという観念が沸き、ますます自分を責めることになると医師は言った。それで私は1月28日から藤枝にある総合病院に入院することにした。実を言うと私は今まで入院の経験がなく、一度入院してみたいと思っていた。
 入院病棟は4名が一室だった。他の人は私より年上の人ばかりだった。最初は世間話などの会話をしたが、基本的に会話は少なかった。それは私が話さないというわけでなく、4名それぞれがあまり会話をしなかった。長く入院していれば話すこともなくなるのだろう。
 毎朝、担当の看護婦さんがあいさつに来る。その後、午前中は点滴を受けた。点滴は2時間くらい続いた。点滴以外にも朝、昼、晩、寝る前に薬を飲む。入院中は薬漬けの毎日だった。することといえば、点滴を受けること、ご飯を食べること、薬を飲むこと、そして眠ること。その他の時間は何もすることがない。読書かテレビを見るくらいだ。僕はノートパソコンを持ちこんでインターネットやメールをしていた。
 自分の病気が回復に向かっているのかはよくわからなかった。気分的にはかなり楽になってはいたが、それは休職したことによることで、薬や点滴が効いているとは思わなかった。
 あまりに退屈だったため、45日間の入院の予定だったが、2週間で退院した。医師はパソコンができくらいになれば退院してもよろしいでしょう、と言った。鬱病のひどい症状では何もできなくなると言う。私は入院する前からインターネットやメールを使っていた。ただ仕事がしたくなかっただけだった。私は自分は病気なんかではなく、ただいやなことから逃げ出したかったのではなかったのかと、そう思いもした。
 とにかく病院を退院した。入院中には、会社関連の友人や先輩、後輩にはメールを出す気にはならなかったが、大学時代の友人Kと友人S、友人Eにメールで近状報告をしていた。 
 そして友人Kと友人Sが退院祝いに、私の実家のある清水市に集合することになった。2月22日のことである。私にとってはとてもうれしいことであった。特に友人Kは家庭をもつ身でありながら、藤沢から清水まで来ると言う。学生時代の友人は変な利害関係で結ばれたものでなく、そんなものがあるのかどうかはわからないが、真の友情で結ばれたものなのだろうと思った。もう大学を卒業して10年余り経つ。高校時代の友人とは最近疎遠になっている。私にとって一番長く付き合っている友人だ。
 当日はあいにくうす曇だった。友人Kは9時ごろ藤沢を電車で出発し、10時半ごろ、東海道線興津駅についた。友人Sが車で友人Kを拾い、私の家まで来た。我々は今日、興津にある駿河健康ランドで湯に浸かりながらゆったりとする予定だった。しかし、まだ時間が早いため、興津の名勝、さった峠までハイキングに行くことになった。
 さったは菩提さったの略であり、悟りを求めて修行する求道者の意である。
 さった峠は、平家が壇ノ浦で滅んだ文治元年(1185)、峠下の漁師が網にかかった地蔵菩薩の像を山上に安置したため、この名があるという。東海道53次でも通行の難所として知られる。最近のトレッキングブームで道はかなり整備されていると親から聞いた。私が小学生のころは遠足などでよく行ったものである。
 私と友人K、友人Sは、私の実家に車をおいて、さった峠へと向かった。私はさった峠に登るは20年ぶりくらいだろう。小学校6年のころ友人と登ったのが最後だと思う。
 実家の周りの山は造成され農道が整備されていた。私の小学生時代とはかなり景色が違う。我々は整備された農道をてくてくと登って峠へと向かった。途中、神社が見えた。私の記憶が正しければ、あれは白髭神社だ。子供のころ、大晦日の夜、除夜の鐘をつきにいったことがある。
 神社を過ぎるとお墓があり、そこからさった峠への道は急な坂道になる。我々は上り口にある休憩所でしばらく煙草を吸ったり、みかんを食べたりして休憩し、山道へむかった。 しばらく峠道を歩く。冬枯れの木々はみかんやびわの木だ。峠道の脇には「のんびる」とわれる草が生えていた。「のんびる」は方言で、正式には「ノビル」と言い、味噌漬にして食べると美味しいという。友人Kは「のんびる」を取っていた。私も子供の頃、よく
ノンビルを取り行ったものだが、当時の記憶は薄れて、「のんびる」がどのような草だったかよく思い出せなかった。友人Kが持って帰った草は雑草かもしれない。
 やがて景色のよい場所に出た。あいにくの曇り空だが、駿河湾と伊豆半島、三保半島が一望できた。天気がよければ富士山も見えたことだろう。
 我々はそこでしばらく休憩し、もと来た道を戻った。実はもう少し先に進めば広い駐車場に出て、そこはもっと景色が良かったようだ。
 私が小学生のころは、まだ道が整備されておらず、さった峠に至るまでに、結構急な山道を歩いた記憶がある。それに今ほど観光客がたくさん訪れることもなかった。最近のトレッキングブームで、休日ともなると実家の前の道を、多くのハイカーが歩いていく。
 20年という歳月。長いようで短い。あのころ夢中で「のんびる」を取っていた無邪気な少年は人生の中盤に差し掛かり、霧の中を迷いながら、わけもわからず進んでいる。
 人生に正解はない。
 自分が正しいと思ったことがすべてだ。
 それが分かっていながら、苦悩する。
 それが分かっていながら、後悔する。
 私は鉛色の海と今にも泣き出しそうな空を見ながら、もう苦悩するのはやめよう、後悔するのはやめようと思った。
 その後、我々は来た道を戻り、友人Kの車で駿河健康ランドへ行き、ゆったりと湯に浸かり、浴びるほどビールを飲んだ。
 私にとってとても嬉しかった早春のひとときだった。
 K君、S君ありがとう。

 

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